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「まちの本屋」の空白地域

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今朝(12月6日)の山陽新聞4面。
「地方文化支える地方出版社 市民の記録を残すこととが未来につながる。」という見出しで、ぼくのインタビュー記事が掲載されている。
新聞1ページのほぼ半分以上を占め、写真も大きい(実物以上にカッコよく写っている)ので、朝早くからたくさんの人から「見たよ!」とメールやメッセージをいただき、改めて地元紙の影響力の大きさを知った。
で、じっくり記事を読んでいて、びっくりしたことがある。
このインタビューに関連して、この記事をまとめてくださった池本正人編集委員の「岡山県書店商業組合の加盟店空白地域」の地図。今年4月現在の書店空白地域を旧市町村単位で表している。その空白地域の多さ、広さに、これもまた改めて驚いた。
その下の記事によると、岡山県内の書店商業組合加盟店は72店(2015年4月現在)。2006年には110店だったそうで、減少傾向は続いている。
先日の岡山日販会で、全国の書店空白市町村が1742市町村のうち332エリアくらいといっていたが、これは平成の大合併以後の市町村数でのことだろうから、池本編集委員がまとめたように、それ以前の旧市町村単位だと、おそらくその比率はもっと高くなるだろう。

地域の文化、交流の拠点として「まちの本屋」を増やしていくことを、ぼくたちは真剣に考えてもいいのではないかと思う。
書店の空白地域
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40年前の自分に出会う

先週の木曜日、倉敷の藤戸町にある天城高校に行った。
「プロフェショナルを迎えて」という特別授業で、「出版の仕事」について話すというものだった。
授業には医師や銀行員、元気象庁の職員で南極越冬隊員経験者、大手自動社メーカーの社員といったさまざまな職種の人が約10人招かれていた。
同校のOBもぼくを含め5、6人いた。

久しぶりに訪れる母校は、中校一貫校に変わっていたこともあり、施設・校舎の数が増えていたようだった。
授業を行ったのは、在学中からあった鉄軒会館の2階。ぼくらはここで、夏休みに部活動の合宿をしたことがある、懐かしい建物だ。
授業は文系の2年生約25人ずつ2回の計50人を対象に話した。

前日、授業のレジメをつくりながら、約40年前の自分のことを思い出していた。
入学は1971年。そして72年、73年と大きな転換期、激動の時代だったことは間違いない。
そんな時代に、17歳のぼくは何を考え、将来のことをどんなふうに考えていたのか。

高2の夏休みにロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読み、その読書感想文を書いていた。現代国語の先生は佐藤元信先生で、「いい作品を読んだな」と声をかけてもらったことを覚えている。
高校に入ってからは、地味で暗くて、存在感のない生活を送っていたぼくには、そのひと言がとても大きな力になった。
「ジャン・クリストフ」は、〈人のために生きる〉生き方を教えてくれた。
当時人気のあった実存主義のサルトルなどの「ペンで飢えた子を救えるか」という投げかけや「行動する知識人」などという言葉に、自身のあるべき方向が少なからず影響された。
一応普通科の進学校だったので、勉強はかなりハードだったが、その勉強を何のためにするのかを探しながらの3年間だった。

高校生たちには、そんな時代のことを振り返りながら、「それでも、17歳のころに芽生えた〉何のために生きるのか〉という問いかけは、もうすぐ58を迎えるいいおっさんになっても生き続けている」と伝えておいた。
40年前の今よりちょっとだけ純粋だった自分を見つけ出した、いい機会だった。

もうトラクターには……

長くブログを書いていなかったら、画面にばーんと広告が出てしまった状態に。1カ月以上更新しなかった罰だそうだ。


ゴールデンウイークは、大佐の家で田植えの準備、草刈り。
お米は作っていない田んぼだが、とりあえずトラクターだけはかけておこうと耕したところまではよかったのだが、ぬかるんでいるところを避けようとして、結局別のぬかるみにはまり込んでしまい、田んぼの端っこで立ち往生。
自力で脱出できず、知り合いの農機具屋さんに頼んで、地元の建設業社からユンボを持って来てもらい、やっとこのとで脱出。なんとか日が暮れるまでに解決したが、一時はどうなることかと。

一昨年だったか、トラクターに乗って田んぼから道路への坂道を上がりかけたところで、一瞬前輪が浮いてしまう、いわゆるウイリーの状態になって転倒しかけた。そのことが頭に残っていて、バックで坂道を上がる方法を選択したためにぬかるみに入ってしまったのだが、当分トラクターの作業は控えたい(そんなわけにはいかないのだけれど)気分だ。

これって、トラウマ?

翌週の土曜日(5月11日)に田植え。幸い、小雨が残るくらいの曇天で、あまり太陽を浴びることもなかった。
それでも、お昼前から日没近くまで田んぼに入っての作業疲れは、翌朝筋肉痛となっていた。
まあ、これで秋以降もおいしい自家製の米を食べることができることだろう。

田植え201305

喪主になる、ということ


先週の土曜日(6日)の昼前、父親が入院先の病院で亡くなった。
86歳。近い家族に見守られての穏やかな死だった。
病室の前の廊下で、「喪主を」と告げられた。
父は妻の父親だが、結婚と同時に山川の家の婿養子になっているので、義母でもいいし、ぼくでも不自然ではない話だ。

病院側は午後2時以降なら病院から送り出すことができるというので、葬儀社に連絡して午後2時に搬送の車を手配してもらう。
大佐の家に連れて帰らなければならない。
搬送の車に同乗することになったので、自宅に戻り葬儀の用意を準備。
その間に、その日の11時に約束していた県立美術館の館長との面会や午後2時からの著者とのアポイントを、事情を話キャンセルしてもらい、翌日の岡野耕三回顧展の記念シンポジウムの欠席(当日のチラシをつくり、受け付けと写真を担当する予定だった)を伝える。
連休明けの火曜日以降も、支払い事務や打ち合わせ、会議、例会などがほぼ毎日詰まっていたので、関係方面に連絡した事情を話し、中止、そして欠席させてもらう。


数日の着替えと葬儀用の服を用意する。黒いベルトが見つからず焦る。
そばにいた息子が、「落ち着け」という。本人はそれほどではないのだが、ずいぶん動揺していたと、息子は言う。
ストレッチャーに乗せられた遺体。お世話になった医師、看護婦さんに見送られながら搬送の黒いワゴン車に乗せる。
そのワゴン車の2列目のシートに乗って、大佐へ。
「一緒に乗られる方は、半分くらしかいないんですよ」と運転の方。感じのいい人だった。

3時過ぎ、大佐の家に着く。
義母と姉夫婦らが先に帰っている。
奥の部屋に父を寝かせる。少し前なら、こうやった自宅での通夜、葬儀がはじまっていくのだろうが、最近では葬儀用のホールでということになる。亡くなった父も母も、メモリー大佐ホールという葬儀社に依頼することを決めていたので、その点では少し気が楽ではあった。
葬儀社の担当者と打ち合わせ。
「会葬御礼のはがきは何枚印刷しますか? お礼の品はどれに?」
いきなり判断を迫られる。
親族代表を務めてもらう親戚と義母に「どうしよう?」と尋ねようとすると、
「喪主が決めなかきゃ」とたしなめられる。
そうか、その瞬間、この葬儀は自分が「決めること」を決めた。

その夜の7時頃から大佐の家のご近所が集まって、葬儀の段取り、役割分担を話し合ってくれた。
葬儀社には頼むものの、地元には地元のやり方、段取りもある。
同じ大佐の葬儀社とはいえ、そのすべてをふまえての葬儀とは限らない。
翌7日の午後6時半から通夜、8日午前8時半から葬儀,10時出棺が決まる。
その夜も家族が交代でお線香をみる。
前日も病室でほとんど寝ていない妻や息子。それでも家族だけの通夜を過ごす。
少し寝て、朝5時からはぼくがみる。

7日は昼間比較的時間の余裕があったので、喪主の挨拶文を考えたり、葬儀の段取りを考える。
午後5時前から湯灌、出棺(自宅から葬儀ホールへ)。
葬儀場に着き、受付を息子・娘と姪に依頼し、ぼくらは弔問客の応対。
たくさんの生花、果物かごが祭壇には備えられ、弔電もたくさん届いている。

葬儀場の係の人から、弔電の披露順を決めてくれといわれ、妻と二人で決める。
儀礼的な議員さんらは後にして、父の仕事関係や心のこもった文面の親戚などを前にする。
ぼくの仕事関係は、連休にも入るし、連絡だけでいいよと言っていたのだが、
いつもとても世話になっている印刷会社の社長や夫婦とも前の会社の後輩だったN夫妻などが弔問に駆けつけてくれた。

葬儀社の担当者が、弔電の数や通夜の参列者の数をみると、はがきが足らなくなる可能性があるので、今ならどうしますか、今なら増やす準備ができますとわれ、200枚用意していたものを100枚追加する。
現場を踏んでいる人の判断を尊重。結果、追加していて正解だった。

通夜の食事は60人を想定して準備したが、少しあまり気味だった。仕方ない。
その夜は、義兄とふたりでセレモニーホールで過ごす。
本当はずっと起きて線香の番をしなければならなかったのだろうが、1時過ぎから寝入ってしまう。

葬儀当日、7時半には弔問客が訪れ始める。
岡山から印刷会社の社長や担当者、デザイナーらの顔が見える。
簡単にしか挨拶ができず、申し訳ない。
8時半から読経が始まる。焼香の立ち会いに挨拶に立つ。以前大佐にいた時に勤めていた備北民報の人たちも来てくれていた。
いろいろ食い違いは合ったようだが、予定通り10時には出棺。
位牌を持って霊柩車の助手席に座る。
火葬場での儀式。赤いボタンを押すとき、少しだけ深い息を吐く。

骨上げの子供たちや姉たちを残し、会葬者と共に大佐まで戻り、寺参り、仕上げのお経。
精進落としの膳も無事終え、その日の5時半ごろには帰宅できた。
怒濤のような3日間。
こうして喪主の大役は終えた。
振り返ればいろいろ反省点もある。それでも、たくさんの人がお別れにきてくれ、にぎやかな葬式ができたことが、故人への最大のはなむけになったのではないか。
だれの、何のための葬式か、少しだけわかったような気がした。

1カ月サイクルを考える…



6時前に一度海渡に起こされて、「マテ!」を言って、ウトウト.
気がつけば7時前になっていた。
慌てて着替え、散歩に。太陽はすっかり高くなって、マンションを出たところで会ったボクサーのレオン君は、散歩を終えて丁度帰っているところだった。
カラッと晴れているが、暑くなりそうだ。

後楽園の駐車場側を40分ほど歩いて帰宅。
歩きながら、今週入っている予定の準備がほとんどできていないことにがっかりする。

例えば月曜日の午後にはこの春から始まった「自分史セミナー」がある。
講座は月に一度で、開講までにおおまかなプログラムは作っているのだが、レジメと教材は前回までの進捗状況に合わせてその翌月までに用意することにしている。
本来なら先週のうちに原稿化しておくはずだったのだが、空いている時間を社史の原稿と写真の整理に追われ、手つかずのままだった。
月に一度という比較的余裕のあるサイクルなのに、あっという間に次回がやってくる。

これは先週の「聞き書き人の会」の例会も同じこと。
企業の社史、団体の記念誌編集などの定例編集会議も、だいたい月に一度のペースで日程をたてている。
1カ月あれば、比較的余裕をもって原稿書きの作業や資料の読み込みなどもできるし、
逆にそれ以上長く間があくと、そのまま手つかずの状態になってしまうこともあるので、帰って危険だ。

とはいえ、この1カ月単位での動きがいくつも重なってくると、簡単な話ではなくなる。
週単位の予定管理はできても、それを超えて長いスパンの計画を日々のやることに落としこんいくのができていない。
つい目の前のやらなければならないことに手が割かれ、時間を使ってしまう。
それにしても1カ月ってこんなに短い時間だったっけなあ。
プロフィール

kibitopub

Author:kibitopub
山川隆之
編集者、吉備人出版代表。1955年岡山市生まれ(旧姓・長井)。岡山市立操南小学校—倉敷市立大高小学校から、倉敷市立南中学校・県立天城高校・三重大学農学部卒業。伊勢新聞記者、備北民報、生活情報紙「リビングおかやま」編集長を経て95年に株式会社吉備人を設立。『絵本のあるくらし』『おかやまの建築家』『のれん越しに笑顔がのぞく』『粘着の技術−カモ井加工紙の87年』『強く、やさしく、面白く』などの編集を担当し、吉備人出版としてこれまでに23年間で約630点を出版。日本出版学会会員、デジタルアーカイブ学会会員、岡山ペンクラブ会員。2012年に福武教育文化賞奨励賞、2013年に岡山市文化奨励賞(学術部門)を受賞。RSKラジオ「ごごラジviviっと!」ゲストパーソナリティー。著書に『岡山人じゃが』(共著)など。

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