薬師寺慎一さんが亡くなった

薬師寺慎一さんが亡くなった。行年90歳。
今日午前11時から西辛川の葬儀場で告別式が行われ、金澤と二人でお別れをしてきた。
10月の中頃だったと思う。元気な声で電話をしてこられた。
「特別用事はないんじゃが、どうしょうる?」という電話だった。
おそらく、預けている原稿の行方を聞きたかったのかもしれない。
今年の秋口まで、『考えながら歩く吉備路』上巻の重版にお伴いいくつかの修正をしたいと、校正作業にエネルギーを注ぎ、それが一段落したと思ったら、次は以前新聞連載していた「歴史の格子窓」という歴史コラムをまとめたいと、300回以上続いていた連載から、約100話ほどピックアップして、その切り抜きを託された。
このころ、今ひとつ元気のなかった(のだろう)私に、
「山川君はいくつになった? 58になる。まだそんなに若いんか? ワシはもう90になるけど、歯も目も自前で、あっちも元気でえ。この間いつも診てもらっている泌尿器の医者に『先生、90にもなってこんなに元気とは化けモノじゃな』といわれた」と大笑いしていた。
肉体だけでなく、頭もしゃんとしたその姿に、生きる力のようなものを感じた。
薬師寺さんは、吉備人が初めてつくった本『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』の著者であり、この18年間に8冊の本を書いてくれた。
『吉備の中山と古代吉備』、『祭祀から見た古代吉備』『聖なる山とイワクラ・泉』『考えながら歩く吉備路(上)』『考えながら歩く吉備路(下)』『岡山の式内社』『吉備の古代史事典』。
どれもジワジワと売れ続け、『楯築遺跡…』『吉備の中山…』『祭祀から…』の3冊は品切れになり、『考えながら歩く吉備路(上)』は今年重版した。
吉備人出版の恩人であり、応援団だった。
何度かきつく叱られたこともあったが、それは怖い先生が悪さをした生徒を本気で怒るそれに似たもので、叱られるこちらに概ね非があった。
だから、時に呼び出しを受けても気が乗らない時があったのも確かだが、ここ2、3年はお邪魔して、短くて1時間、通常は2時間、先生との話が楽しみでもあった。
薬師寺先生は、権威や差別がとても嫌いだった。
京大で学んだからかもしれないが、東大の権威主義的なところなどは、高校日本史の教科書を題材にしながら、鋭く批判していた。
『岡山の式内社』をまとめたとき、あまり売れそうにないと思った薬師寺先生は、「この本はもう出すのをやめよう」と、突然言い出したことがある。
校正、編集もすすんで念校という段階だった。
ぼくは、「出すと決めたのはこちらだから、先生はそんな心配は無用です。出しますよ」と返事をした。
その本のあとがきには、「それが大切な大切な書物であれば、地方出版社としての抱負・責務に基づいて出版を決意することも、時には大切かもしれません。山川社長さんが岡山県民の文化向上のために本書の出版に踏み切られたとすれば、事の大小は別にして、出版という仕事にかける抱負と使命感は、平凡社や岩波書店の初代社長さんと同じであり、高く評価されてもよいと思う次第です。」とほめてくれた。
本書の刊行後、「この本は、中味はともかくあとがきは意味のある本だ」と、よく笑っていた。
そういえば、ほかの本でも、いつもあとがきには、「誠実に対応してくれた」と謝辞を記してくれていた。
きびしい人だったけれど、いつも吉備人のことを励まし、支え、そして鍛えてくれた。
吉備の古代史について、今豊かな議論ができるのも、薬師寺先生のような在野のフィールドワークを大切にする研究者がいるからだ。
昨年刊行した『吉備の古代史事典』が最後の本となった。
それまでは、新聞連載したものをまとめたり、先生から持ち込まれた企画で出版していたが、事典は私が無理を言ってまとめてもらったものだ。先生としてはあまり気乗りはしなかったのかもしれないが、薬師寺先生の吉備の研究の集大成ともいえる本をまとめておきたかった。今となっては、とりあえずこの事典が完成していたことが、せめてもの救いだったようにも思う。
「リビングおかやま」で薬師寺先生の本を紹介してからのおつきあいだから、もう30年近くになる。
長い間、お疲れさまでした。
心からご冥福をお祈りします。
スポンサーサイト